神様のくれた物語。
2004年3月29日「すなうつ」とうとう、最終回を終えてしまいました。
月並みだけど、感動で、胸にぽっかり穴が開きました。
でも、ほっとしてもいます。本当に、あの一月18日の
日曜九時から、私も色んなものを背負い込んでしまいました。
和賀(秀夫)の罪。中居さんの重圧。スタッフの重圧。
メンバーとの比較。数字の重圧。本当に色々
しんどかったです。こんなにしんどいなら、もう
ドラマなくても、いいかもって思うくらいでした。でも、
全部見終えて、このドラマ、この物語は、
中居さんの主演だから、スマップがどうたら、とか
そういう問題ではなく、本当に、今、この時代に
日本人が(というか、世界中の人が)観て、考えないと
いけない問題をあつかっているのだな。と思え、
そう思ったら、自分の卑小さや、世間の卑小さが
凄く厭わしく思いました。
私は、特定の宗教とかそういうことでなく、
スピリチュアルなものとか、やはり宗教的なものとか
神とかそういうことに興味があるのですが。
そういう本とかを読みかじったところ、
クラシック音楽とかそういう壮大な芸術には、
単に、作曲家の才能とかだけでなく、霊界とかからの
霊的なスピリチュアルなものによって、この世界に
送り出されるものがあるのだということを知りました。
そして、まさに、今回の「すなうつ」には
そういうものを感じないではいられません。
三十年以上も前に松本清張という推理作家の
頭の中で生まれた和賀英良とい一人の人物が
長い時を経て、中居正広という人物の体を借りて、
この世に実在し、苦悩し、辛吟し、宿命と闘い、
そして、それを受け入れた。そして、その姿に
多くの人たちが涙し、共感し、考え、反省した。
今、なぜ「砂の器」なの?って。思うこともあります。
でも、
単なリメイクばやりだから。という言葉ではかたづけ
られないものを感じます。
思えば、松本先生の原作はあくまでも推理小説であり、
和賀はハンセン氏病で差別された父を持ち、
不遇の少年時代を送った。と表記はされてても、
行間から、その悲しさや、辛さを感じることはありませんでした。和賀、というか、和賀の父に対する同情で、
感動を醸し出した、映画があったればこその
今回の「すなうつ」ドラマ化であったことは
確かだと思います。でも、一見、ドライで、和賀に
あまり同情できない推理小説とはいえ、松本先生の
原作の中にも、神のお導きを感じないではいられません。
それは、三木が本浦親子と初めて会った亀嵩が、
出雲にあり、三木が和賀の写真を発見したのが
お伊勢まいり先の、伊勢の地であったことです。
松本先生がこの二つの地を小説の舞台に選んだことに、
何か意味を込めたのかはもう、知る由もありませんが、
出雲大社と、伊勢神宮という、日本を守る大きな神社が
存在する地が舞台になったということは、何か、
目に見えない、日本を守る神様とかいうものが、
この、迷いに迷ってる、そして
狂いだしている日本というものに、目を覚まして欲しくて
この小説を松本先生を通して、この世に生み出されたの
ではないか?と思うのです。そして、その何か大いなる
ものの想いが、何十年後である2004年、一月、
この小説が生まれたころより、もっとおかしくなりつつ
ある日本に、アイドル中居さんという依り代を借りて、
日本人に、親子の絆の重たさ。罪をかぶることの
恐ろしさ。人を貶めることの重大さ、命の大切さ。
芸術の崇高さ。などなど、ありとあらゆるものを
教えてくれたように思います。
ドラマ「すなうつ」にも、神の存在をうかがわされる
描写が沢山あります。
あさみは、まさに、和賀の愛する女性、和賀を愛する
女性であるまえに、「神様」だったのではないで
しょうか。三木殺害の現場にいたことを唯一目撃する
あさみ。これは、「神様はなんでも見ています」って
いうことだと思うし、神様という言葉に抵抗が
あるのなら、「自分の良心」と置き換えてもいいと
思います。だれをもごまかせても、自分はごまかせません。
そして、和賀の罪を知り、それでも受け入れ、
彼の人生に同情し、心から涙するあさみ。
これも、よく、「この世に神も仏もあるものか。」
という言葉がありますが、本当に、この世に万能の神が
存在するなら、こんなに悲劇は起こるまい。という
日常に満ちる悲劇のニュースの数々です。
でも、神様は、万能ではなく、お父さん、おかあさんと
同じように定義されるものなのだと思うのです。
父母は、命を生み出す力はありますが、その後の
子供の人生を万能に動かす力はありません。
でも、父母は、いつも心の中で子供の幸を祈っており、
子供の不幸に涙するのです。だから、神様も、
生み出した人間の幸福を祈り、不幸を悲しんでいると
思います。人間、一人ぼっちだと絶望したときでも、
どこかに、自分のことを思い、涙する人が
一人や二人はいるのだ。と、生身の人間がいないなら、
神様が、見守り、泣いてくださってるのだと
思うと、少しは救われるのではないでしょうか?
そういう意味の救いの象徴があさみであったと思います。
そして、秀夫は、自分の父親に最後、「三木さんを
殺してしまいました」と懺悔します。
自分にとって一番近い神様(生命を生み出してくれた)は
両親だから、その親に、自分の罪を告白することは、
まさに、神に罪を告白し、懺悔した人間をあらわして
いると思います。そして、親(神)は、ただ、その
罪にのみを、悲しみ、受け入れ、許す(秀夫に
「すまない」と謝る)のです。
(そういえば、渡辺謙さんも、自分を秀夫を神様と
つなぐ牧師であると言っていましたね)
だから、このシーンが、こんなにも、人々の心を
揺り動かし、鷲つかみにするのだと思うのです。
きっと龍居さんは、人間以上のものの何かを感じつつ
物語を生み出されておられる方なのだと思います。
だから、彼女の脚本は、心にしみるのだと・・・・。
罪は、「包む」という語源から来ていると
聞きました。悪い行いを包み隠す。
和賀は、最後には秀夫に戻り、罪を告白、懺悔しました。
あとは、三木さんの霊への弔いと、贖罪の日々が待っています。
それが、どういう形になり、秀夫がどういう人生を
歩むのかはわかりませんが、確かに、秀夫は
自殺をしないで、生きて、罪を受け、あがなう道を
選んでくれました。そして、スタッフも、そういう
秀夫を描いて、あとは、我々視聴者に、秀夫の負った
罪を一緒に背負って生きて欲しいと言っていると
思います。誰も、まだ秀夫と同じ罪を背負っている人は
少ないと思います。でも、人間いつ鬼になるかわからない
という危うさを背負っていることに変わりはありません。
もし、この「すなうつ」の秀夫の罪を皆が自分のこととして
背負って生きていくのなら、少しは素敵な日本に
なるんじゃないか?と思います。単なる感動ドラマでは
なく、本当に自分のこととして、背負って生きるべきなの
だと思います。でないと、出雲の神様と、伊勢の
神様が泣きます^^;。
中居さんは、自分のポジションを神様が与えてくれた。と
よく言われます。本当に、そういう彼だからこそ、
「和賀英良・本浦秀夫」に抜擢(神様に選ばれた)
んでしょう。そう、思います。
テーマ性においても、世界最高作だと思います。
誇りに思います。
月並みだけど、感動で、胸にぽっかり穴が開きました。
でも、ほっとしてもいます。本当に、あの一月18日の
日曜九時から、私も色んなものを背負い込んでしまいました。
和賀(秀夫)の罪。中居さんの重圧。スタッフの重圧。
メンバーとの比較。数字の重圧。本当に色々
しんどかったです。こんなにしんどいなら、もう
ドラマなくても、いいかもって思うくらいでした。でも、
全部見終えて、このドラマ、この物語は、
中居さんの主演だから、スマップがどうたら、とか
そういう問題ではなく、本当に、今、この時代に
日本人が(というか、世界中の人が)観て、考えないと
いけない問題をあつかっているのだな。と思え、
そう思ったら、自分の卑小さや、世間の卑小さが
凄く厭わしく思いました。
私は、特定の宗教とかそういうことでなく、
スピリチュアルなものとか、やはり宗教的なものとか
神とかそういうことに興味があるのですが。
そういう本とかを読みかじったところ、
クラシック音楽とかそういう壮大な芸術には、
単に、作曲家の才能とかだけでなく、霊界とかからの
霊的なスピリチュアルなものによって、この世界に
送り出されるものがあるのだということを知りました。
そして、まさに、今回の「すなうつ」には
そういうものを感じないではいられません。
三十年以上も前に松本清張という推理作家の
頭の中で生まれた和賀英良とい一人の人物が
長い時を経て、中居正広という人物の体を借りて、
この世に実在し、苦悩し、辛吟し、宿命と闘い、
そして、それを受け入れた。そして、その姿に
多くの人たちが涙し、共感し、考え、反省した。
今、なぜ「砂の器」なの?って。思うこともあります。
でも、
単なリメイクばやりだから。という言葉ではかたづけ
られないものを感じます。
思えば、松本先生の原作はあくまでも推理小説であり、
和賀はハンセン氏病で差別された父を持ち、
不遇の少年時代を送った。と表記はされてても、
行間から、その悲しさや、辛さを感じることはありませんでした。和賀、というか、和賀の父に対する同情で、
感動を醸し出した、映画があったればこその
今回の「すなうつ」ドラマ化であったことは
確かだと思います。でも、一見、ドライで、和賀に
あまり同情できない推理小説とはいえ、松本先生の
原作の中にも、神のお導きを感じないではいられません。
それは、三木が本浦親子と初めて会った亀嵩が、
出雲にあり、三木が和賀の写真を発見したのが
お伊勢まいり先の、伊勢の地であったことです。
松本先生がこの二つの地を小説の舞台に選んだことに、
何か意味を込めたのかはもう、知る由もありませんが、
出雲大社と、伊勢神宮という、日本を守る大きな神社が
存在する地が舞台になったということは、何か、
目に見えない、日本を守る神様とかいうものが、
この、迷いに迷ってる、そして
狂いだしている日本というものに、目を覚まして欲しくて
この小説を松本先生を通して、この世に生み出されたの
ではないか?と思うのです。そして、その何か大いなる
ものの想いが、何十年後である2004年、一月、
この小説が生まれたころより、もっとおかしくなりつつ
ある日本に、アイドル中居さんという依り代を借りて、
日本人に、親子の絆の重たさ。罪をかぶることの
恐ろしさ。人を貶めることの重大さ、命の大切さ。
芸術の崇高さ。などなど、ありとあらゆるものを
教えてくれたように思います。
ドラマ「すなうつ」にも、神の存在をうかがわされる
描写が沢山あります。
あさみは、まさに、和賀の愛する女性、和賀を愛する
女性であるまえに、「神様」だったのではないで
しょうか。三木殺害の現場にいたことを唯一目撃する
あさみ。これは、「神様はなんでも見ています」って
いうことだと思うし、神様という言葉に抵抗が
あるのなら、「自分の良心」と置き換えてもいいと
思います。だれをもごまかせても、自分はごまかせません。
そして、和賀の罪を知り、それでも受け入れ、
彼の人生に同情し、心から涙するあさみ。
これも、よく、「この世に神も仏もあるものか。」
という言葉がありますが、本当に、この世に万能の神が
存在するなら、こんなに悲劇は起こるまい。という
日常に満ちる悲劇のニュースの数々です。
でも、神様は、万能ではなく、お父さん、おかあさんと
同じように定義されるものなのだと思うのです。
父母は、命を生み出す力はありますが、その後の
子供の人生を万能に動かす力はありません。
でも、父母は、いつも心の中で子供の幸を祈っており、
子供の不幸に涙するのです。だから、神様も、
生み出した人間の幸福を祈り、不幸を悲しんでいると
思います。人間、一人ぼっちだと絶望したときでも、
どこかに、自分のことを思い、涙する人が
一人や二人はいるのだ。と、生身の人間がいないなら、
神様が、見守り、泣いてくださってるのだと
思うと、少しは救われるのではないでしょうか?
そういう意味の救いの象徴があさみであったと思います。
そして、秀夫は、自分の父親に最後、「三木さんを
殺してしまいました」と懺悔します。
自分にとって一番近い神様(生命を生み出してくれた)は
両親だから、その親に、自分の罪を告白することは、
まさに、神に罪を告白し、懺悔した人間をあらわして
いると思います。そして、親(神)は、ただ、その
罪にのみを、悲しみ、受け入れ、許す(秀夫に
「すまない」と謝る)のです。
(そういえば、渡辺謙さんも、自分を秀夫を神様と
つなぐ牧師であると言っていましたね)
だから、このシーンが、こんなにも、人々の心を
揺り動かし、鷲つかみにするのだと思うのです。
きっと龍居さんは、人間以上のものの何かを感じつつ
物語を生み出されておられる方なのだと思います。
だから、彼女の脚本は、心にしみるのだと・・・・。
罪は、「包む」という語源から来ていると
聞きました。悪い行いを包み隠す。
和賀は、最後には秀夫に戻り、罪を告白、懺悔しました。
あとは、三木さんの霊への弔いと、贖罪の日々が待っています。
それが、どういう形になり、秀夫がどういう人生を
歩むのかはわかりませんが、確かに、秀夫は
自殺をしないで、生きて、罪を受け、あがなう道を
選んでくれました。そして、スタッフも、そういう
秀夫を描いて、あとは、我々視聴者に、秀夫の負った
罪を一緒に背負って生きて欲しいと言っていると
思います。誰も、まだ秀夫と同じ罪を背負っている人は
少ないと思います。でも、人間いつ鬼になるかわからない
という危うさを背負っていることに変わりはありません。
もし、この「すなうつ」の秀夫の罪を皆が自分のこととして
背負って生きていくのなら、少しは素敵な日本に
なるんじゃないか?と思います。単なる感動ドラマでは
なく、本当に自分のこととして、背負って生きるべきなの
だと思います。でないと、出雲の神様と、伊勢の
神様が泣きます^^;。
中居さんは、自分のポジションを神様が与えてくれた。と
よく言われます。本当に、そういう彼だからこそ、
「和賀英良・本浦秀夫」に抜擢(神様に選ばれた)
んでしょう。そう、思います。
テーマ性においても、世界最高作だと思います。
誇りに思います。
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