究極の「純愛ドラマ」それは・・・。
2004年9月19日今日は書くことないので、ちょっと「純愛ドラマ」について
自分の思ってること、書いちゃおうかな?と
思います。
あと、日記は、あくまでも、私が感じたこと、思ったことを
書き連ねてるだけで、研究した結果の論文とかでもないので、
正しいことなんか、書いてません^^;。
言い切ったり、えらそーな表現をしてても、
「そう思った」というだけであって、一つの感想の選択の
結果であり、思い込みなので、異論反論正論。色々
私の考えとかに対抗意見を感じると思います。
それでいいのだと思います。
ありがたくも、読んでくださってる皆さんも、
なので、お気軽にお読みください。
「あ、この人、そう思ってんのね」くらいに考えてくださいませ。
んでは、「純愛ドラマ」について・・・。
私、自慢じゃないけど、あんまりドラマとか観ないんです。
ワンクールで、二、三本かな。
それも、話題作、高視聴率、イケ面でてるドラマ。など、
けっこうミーハーなドラマを選んでるかも。
ということで、あまたのドラマを観たわけでもないから、
言い切るのもなんだけど、今まで見てきたドラマの
中で、私が究極の「純愛ドラマ」だなーって思うのが、
「白い影」なんですねー。
意外かな?
「純」っていうと、ピュアっとかなって、「いいもの」「いいこと」の
ような感じはするんだけど、「純」をもっと突き詰めると、
「まじりけがない」という状況を表す言葉になるように
思うのです。よくも、悪くも無い。ただ、何も混じってない。
まあ、まじってないというのは、いいことの一つなのかも
しれないけど。
でも、私らが飲んでるお水には、けっこう色んなものが
混じってるらしく、ミネラルだとか、なんだとか。
決して、純粋な化学式でできてる「水」ではないとの
ことなんですね(あまり化学とか知らないから、いえないけど)
綺麗すぎるお水にはお魚は住めない。という諺もあるし、
本当の純水は、まずくて飲めない。というし。
で、何が言いたいのかというと「純」であることは
一面、とても残酷なことなのかもしれないな。ということです。
純な気持ちをある人間が追い求めると、それは周りの
人にとっては、とても辛い状況になるんではないかな?
と思ったのです。
で、「白い影」
「白い影」の主人公、直江庸介は、死病に取り付かれていて、
余命いくばくもなく、自分の恐怖と孤独を生めるために、
女遊びを繰り返してたんだけど、そして、医者としては、
患者のために尽くすという、またまた「純化」した
思いで生きていたわけで。
そういう生き方をしながら、最後のときを息を詰めてまっていた、
そこに、志村倫子という、明るくて、純情でまっすぐな
女性に出会って、何か心を救われるような、身内が
暖かくなるような気持ちになって惹かれていくんだよね。
で、直江は今までのように、遊びの気持ちだけでなく、
本当に彼女を一人の女性として、愛していくんだけど、
直江は倫子に、「純愛」を求めたんだよね。
つまり、本当の恋心とか、愛情だけ。
直江が病気で、もうすぐ死ぬということを告げないのは、
倫子から、「同情」というものを微塵も感じたくなかった
からなんじゃないかな。って。
もし、倫子から「同情」を感じてしまったら、
直江はその「同情」の向こうに「自分の死」を感じてしまう。
それでは、直江はまた、混じりけなしに、倫子と
対峙できない。恐怖とか悲しみの感情が混じってしまう。
倫子と対等に愛し合えない。自分の死を忘れられない。
だから、直江は倫子を最後まで騙し続けてしまったんだと
思うのです。
言い換えれば、自分の気持ちの満足のために、
相手の気持ちよりも、自分の気持ちを超最優先した
子供じみた、エゴというか、本当に、自分勝手な
行動なんだけど。でも、だからこそ、「純愛」(ピュアすぎて
魚が住めない。毒のようなお水なわけです)
なんじゃないかなと思うのでした。
一見強い男性のようでありながら、そして、強く生きている
男性なんだけど、そういう「純愛」を求めた直江の
弱さが、女性を惹きつける要素なのかなーって、
思うわけです。
で、倫子は勝手に自殺されちゃうやら、
子供まで出来ちゃうやらで、ショックを受けるわけです。
現実だったら、
「いったいなんなのーーーっ」って
感じなんだろうけど、
彼女は、直江のことを許すんだよね。
この世の最高の「愛」は、放つ愛なんだそうで。
放つ愛=、許し。だとしたら、
最後の倫子の許しによって、直江の非道は救われるわけで。
倫子の許し(再生)があったからこそ、「白い影」は
作品として、最後救われたわけで。
まあ、どんなに酷い目にあっても、許せるぐらいの
男性に出会い、許せるくらいにピュアに愛することが
できた、倫子を、女性として、「かわいそう」と
思うより「尊敬」できるように描かれたのが、
よかったんじゃないかなーって、思うのでした。
一歩間違えると、自分勝手な男の理想のために
犠牲になった女性。みたいな感じになっちゃうんだ
ろうけど、女性ファンが沢山できたということは、
「白い影」が、男の身勝手なロマンを描きながらも、
そのロマンにお付き合いしながら、それを受け止めて
いく、本当の女性の強さを描いてたからなのかな?
と思いました。ま、相手がヘンテコなら、女性は
もっともっと真に強くならないといけない。
で、男性っていうのは、しょうもないもんなんだよ。っていう
渡辺先生の思想が色濃く出てた作品なんじゃないかな?
と思ったわけです。
「白い影」は、「生」「死」「愛」「許し」という
それらのことを、ドラマという架空で、誇張された
ものを描けるという武器を生かして、
「純」に表現してくれてたように思います。
色々「純愛」ドラマっていうのは
ありますが、こういうなんか、深いところまで
人間のいいとこ、わるいとこも含めて表してくれた
ドラマっていうのは、やはり「白い影」が私の中では
一番かな?って思っております。
直江のね、最後の選択や、倫子への対応は、
だから、ドラマの展開としてはありなのかもしれない
けど、どこか、現実を生きる私たちには
納得のいかない部分もあると思うんです。
(私も、まだ納得できない部分があり、でも、
直江にあこがれたりもありで)でも、ああいう展開だから
こそ、描けるものが、まあ、つまり「純愛(許しも含む)」
なのかな。っと思ったわけです。
ながながと、すみませんでした。
自分の思ってること、書いちゃおうかな?と
思います。
あと、日記は、あくまでも、私が感じたこと、思ったことを
書き連ねてるだけで、研究した結果の論文とかでもないので、
正しいことなんか、書いてません^^;。
言い切ったり、えらそーな表現をしてても、
「そう思った」というだけであって、一つの感想の選択の
結果であり、思い込みなので、異論反論正論。色々
私の考えとかに対抗意見を感じると思います。
それでいいのだと思います。
ありがたくも、読んでくださってる皆さんも、
なので、お気軽にお読みください。
「あ、この人、そう思ってんのね」くらいに考えてくださいませ。
んでは、「純愛ドラマ」について・・・。
私、自慢じゃないけど、あんまりドラマとか観ないんです。
ワンクールで、二、三本かな。
それも、話題作、高視聴率、イケ面でてるドラマ。など、
けっこうミーハーなドラマを選んでるかも。
ということで、あまたのドラマを観たわけでもないから、
言い切るのもなんだけど、今まで見てきたドラマの
中で、私が究極の「純愛ドラマ」だなーって思うのが、
「白い影」なんですねー。
意外かな?
「純」っていうと、ピュアっとかなって、「いいもの」「いいこと」の
ような感じはするんだけど、「純」をもっと突き詰めると、
「まじりけがない」という状況を表す言葉になるように
思うのです。よくも、悪くも無い。ただ、何も混じってない。
まあ、まじってないというのは、いいことの一つなのかも
しれないけど。
でも、私らが飲んでるお水には、けっこう色んなものが
混じってるらしく、ミネラルだとか、なんだとか。
決して、純粋な化学式でできてる「水」ではないとの
ことなんですね(あまり化学とか知らないから、いえないけど)
綺麗すぎるお水にはお魚は住めない。という諺もあるし、
本当の純水は、まずくて飲めない。というし。
で、何が言いたいのかというと「純」であることは
一面、とても残酷なことなのかもしれないな。ということです。
純な気持ちをある人間が追い求めると、それは周りの
人にとっては、とても辛い状況になるんではないかな?
と思ったのです。
で、「白い影」
「白い影」の主人公、直江庸介は、死病に取り付かれていて、
余命いくばくもなく、自分の恐怖と孤独を生めるために、
女遊びを繰り返してたんだけど、そして、医者としては、
患者のために尽くすという、またまた「純化」した
思いで生きていたわけで。
そういう生き方をしながら、最後のときを息を詰めてまっていた、
そこに、志村倫子という、明るくて、純情でまっすぐな
女性に出会って、何か心を救われるような、身内が
暖かくなるような気持ちになって惹かれていくんだよね。
で、直江は今までのように、遊びの気持ちだけでなく、
本当に彼女を一人の女性として、愛していくんだけど、
直江は倫子に、「純愛」を求めたんだよね。
つまり、本当の恋心とか、愛情だけ。
直江が病気で、もうすぐ死ぬということを告げないのは、
倫子から、「同情」というものを微塵も感じたくなかった
からなんじゃないかな。って。
もし、倫子から「同情」を感じてしまったら、
直江はその「同情」の向こうに「自分の死」を感じてしまう。
それでは、直江はまた、混じりけなしに、倫子と
対峙できない。恐怖とか悲しみの感情が混じってしまう。
倫子と対等に愛し合えない。自分の死を忘れられない。
だから、直江は倫子を最後まで騙し続けてしまったんだと
思うのです。
言い換えれば、自分の気持ちの満足のために、
相手の気持ちよりも、自分の気持ちを超最優先した
子供じみた、エゴというか、本当に、自分勝手な
行動なんだけど。でも、だからこそ、「純愛」(ピュアすぎて
魚が住めない。毒のようなお水なわけです)
なんじゃないかなと思うのでした。
一見強い男性のようでありながら、そして、強く生きている
男性なんだけど、そういう「純愛」を求めた直江の
弱さが、女性を惹きつける要素なのかなーって、
思うわけです。
で、倫子は勝手に自殺されちゃうやら、
子供まで出来ちゃうやらで、ショックを受けるわけです。
現実だったら、
「いったいなんなのーーーっ」って
感じなんだろうけど、
彼女は、直江のことを許すんだよね。
この世の最高の「愛」は、放つ愛なんだそうで。
放つ愛=、許し。だとしたら、
最後の倫子の許しによって、直江の非道は救われるわけで。
倫子の許し(再生)があったからこそ、「白い影」は
作品として、最後救われたわけで。
まあ、どんなに酷い目にあっても、許せるぐらいの
男性に出会い、許せるくらいにピュアに愛することが
できた、倫子を、女性として、「かわいそう」と
思うより「尊敬」できるように描かれたのが、
よかったんじゃないかなーって、思うのでした。
一歩間違えると、自分勝手な男の理想のために
犠牲になった女性。みたいな感じになっちゃうんだ
ろうけど、女性ファンが沢山できたということは、
「白い影」が、男の身勝手なロマンを描きながらも、
そのロマンにお付き合いしながら、それを受け止めて
いく、本当の女性の強さを描いてたからなのかな?
と思いました。ま、相手がヘンテコなら、女性は
もっともっと真に強くならないといけない。
で、男性っていうのは、しょうもないもんなんだよ。っていう
渡辺先生の思想が色濃く出てた作品なんじゃないかな?
と思ったわけです。
「白い影」は、「生」「死」「愛」「許し」という
それらのことを、ドラマという架空で、誇張された
ものを描けるという武器を生かして、
「純」に表現してくれてたように思います。
色々「純愛」ドラマっていうのは
ありますが、こういうなんか、深いところまで
人間のいいとこ、わるいとこも含めて表してくれた
ドラマっていうのは、やはり「白い影」が私の中では
一番かな?って思っております。
直江のね、最後の選択や、倫子への対応は、
だから、ドラマの展開としてはありなのかもしれない
けど、どこか、現実を生きる私たちには
納得のいかない部分もあると思うんです。
(私も、まだ納得できない部分があり、でも、
直江にあこがれたりもありで)でも、ああいう展開だから
こそ、描けるものが、まあ、つまり「純愛(許しも含む)」
なのかな。っと思ったわけです。
ながながと、すみませんでした。
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